番頭体験談(思い出話)

発症♪
高校2年生の春休み、なんだかず〜〜っとお腹いたい&下痢。風邪ひいたかな(−−)と思い内科で風邪薬を処方してもらいつつ春休み補習(番頭が通っていた高校は一応公立の進学校だったらしいので「全校補習」というのが休みのたびにあったのだ!何てことだ!)に出ていたのだけれど、イチゴジャムのような便が出た頃に、「娘の体調はどうもおかしい単なる病気ではなさそうだぞ!」と思ったらしい母親が「総合病院へ行こう!」というので自転車飛ばして行きました。というか、行かされました。(片道1時間かかるんだけど)

で、診察結果は
「急性腸炎(潰瘍性大腸炎の疑い大)」その時の担当が内科の部長先生で、倉敷の病院の中では潰瘍性大腸炎についても詳しかったらしいのでこの判断が出たらしく
「血便が出てるんだからひどいんだよ!炎症も起きてるし。即入院してくださいね!」とのお達しだったのに、
「あの〜、夏休みじゃダメですか??」
「そんなに待ってたらあんた死んどるぞ!」
「じゃ、明後日テストなんでそれ終わってからでも良いですか〜?」
「(−−)そのくらいなら待ちましょう。」
こんな交渉が行われていたのだけれど、この最初の部長先生がこう判断してくれていなかったら私の大腸はきっともっとひどい状態になってたのだろうと思う。この時サラゾピリンを処方してもらい、帰途についたのでありました。

入院♪
テストを受けてその日の夕方から入院。クラスの書記を頼まれていたのに
「ごめん〜。今日から入院するから(^^;」
「えー(@@)元気そうなのに〜〜?」
いつもどたばたしてるから元気そうに見えたらしい(笑)本当にその時のクラス委員長さんごめんなさい<(_ _)>
たまたま空いていた2人部屋、しかも1人で占領(笑)だったので快適な入院生活でした。
食欲はこの時ほとんどなく、入院してからもあまり食事量の増加は無かった。おかげで10キロの体重減量が行われたのである(笑)しかし、入院してからの治療は経過観察と食餌&投薬治療。出血がおさまるのに時間はそうかからなかったが、内視鏡検査をしてもらうと、潰瘍はまだピッチピチ元気♪

原因に関しては色々と説があるけれども、ストレスが原因だとすれば家は父。私は父が大嫌いだった。
自己中心的で何でも自分の思い通りに行かないと酒を飲み、辺りにわめき散らすわがままな男だった。
担当医師もその時、別の病気で同じ科に入院していた(−−)父をみてこれが原因だな、と思ったらしい。それで忠告もしてくれていたらしいが「断じて自分の所為ではない!!」と大層立腹だったそうだ。自分が悪くても認めない。そこが相容れなかった最大の原因なのだけれど。こんな話を担当医師と出来たのも1人占有状態の2人部屋だったからなんだろうなぁ。あ、身内話を(^^;

で、食餌もある程度出来るようになって退院は20日程。
しかし、この時は軽症だった為まだUCとは判定できず、この後は普通に生活していたのでありました。
蛇足:この後の中間テストは散々だったのである教科で追試を受けそうに…。しかし、高校も2年生となればずるいもんで細工をして「採点ミス」と先生に突っ込んでギリギリ追試を受けずにすませました。悪いヤツ。だってその教師、好きじゃなかったんだもん(爆)

再入院♪
次の年の同じ時期。高校3年生の春、再入院になりました。
前の年の夏に血便が出たりしたのだけれど短期間だったので、お腹にやさしい食餌を母が作ってくれたおかげもあっておさまったのでそのままに。この時行っていればもっと早く認定されていたのかもしれないが、なんせのんきな高校生、「ちょっとお腹壊しちゃった♪」程度に思ってました、この春まで…。血便続くし食欲は無い。そして再入院。
今度は6人部屋の窓際。賑やかなおばちゃんとお姉さんたちのいる明るい病室でした。
しかし症状はやはり2週間ほど安定せず、結局退院したのは前回と同じ20日程。その上、多形紅斑まで出るしまつ。この時にやっと
「潰瘍性大腸炎」確定、となったのでありました。

知識♪
実際病気になるまでこの病気の事は全く知らず、治療内容もどんな病気かも通院していた病院での説明でしか知識はありませんでした。ネットも普及してない頃ですし、なんせ田舎なので本屋さんにメジャーでない病気の本は置いてない(爆)
しかし、この時通っていた病院は親切で特定疾患の新規登録の手続など全て入院中に病院側が用紙をもらってきてくれたり提出してくれたりと至れり尽せりだったそうです。前年の入院費分の申請までして頂いて超過の料金は戻ってきたそうです。(母談)

緩解期
ストレスの源、父親と大喧嘩をして結局大学へは行かず、自分の貯金で大阪の美術の専門学校へ行きましてからほぼ緩解と言って良いかもしれません。父親と離れる事でストレスを少なくして昔からやりたかった美術の方へすすんだからかもしれません。自分のやる事に責任持ってやれば好きなコトだってやったって良いんだと、この時実感しましたね。それまで父の意思でがんじがらめでしたから(^^;
学生から就職一年目の頃はストレスをあまり感じなかった所為か、
「食餌治療」なるものを知りませなんだが普通の食事をしていても一升のお酒を飲んだときと焼肉食べ過ぎた時ぐらいしかお腹壊しませんでしたね(体調のいい時の話ですよ!)でも、風邪をひいたり抵抗力が無くなると一発で血便出てドキドキしてましたが。しかし、入院する事も無く暮らせたので、まぁ、「緩解」と言って良いでしょう。

就職♪
就職してからはちょこちょこ疲れや無理(デザイン事務所だったので徹夜や休日出勤は当たり前!だったのだ)をして、2年目でコンビに弁当に当たって10日入院(−−)これがきっかけで再発しかけたので仕事に差し障ると判断してこの時は退職。この退職で休養できた所為か大してひどい状態にまでは行かず、なんとか安定。
その後図書館でのバイトで社会復帰の慣らしをしてから、また就職。またもやデザイン事務所だが、今回は「こういう病気でこういうことがありますので」という事を理解してもらっての就職。そしてその職場に在職中に5年越しの付き合いのダンナと結婚。で、結婚してからも仕事がんばろう!としていた矢先に
椎間板ヘルニア(−−)症状がひどく、座る事まママならず、これで退職(;-;)しかし休養後、在宅ワーカーとしてそのまま個人事務所扱いでお仕事させていただいたのでありがたかったです。まわりにいっぱい助けていただきながらの就職&結婚でゴンス。

最後に♪
病気になってから母親には迷惑かけっぱなしでした。食事に気を使ってもらい、父親との間に入って進路の事で味方になってもらい、大阪に来てからは母の実家にお世話になっていたし。結婚してからも緩解とは言えたまに出血など入院するほどではない程度の悪化はままある。そんな時にも孫を見てくれるのに倉敷から出てきてくれる。「親なんだから」と言われたらそれ以上何も言えないけれど本当に感謝している。お母さんありがとう。


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